義烈挺身隊ようやく出撃できたんだ

 

100式試銃を持っている

 

https://www.youtube.com/watch?v=7WfO3mALBlA

ようやく出撃できた。

辛かっただろう

戦局が悪化し

突入が二転三転した。

死に場所がようやく決まった。

敵は予期せぬ攻撃に

慌てふためき修羅場になった。

沖縄戦の後半、敵の手に落ちた二つの飛行場を制圧するという陸軍の作戦史上、類を見ない過酷な任務を背負った精鋭部隊が沖縄に飛来しました。

「義烈空挺隊」その壮絶な戦闘は神話化されていますが、沖縄出身の隊員がいたことや、第二期計画があったことはあまり知られていません。知られざる集団特攻の実態に迫ります。

1945年5月24日。熊本の健軍飛行場では奥山大尉以下、150人の隊員が最後の別れを惜しんでいました。彼らの任務は、アメリカ軍に占領された読谷と嘉手納、二つの飛行場に爆撃機ごと胴体着陸し、使用不能にする作戦です。

 

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さらに義烈空挺隊は、米軍の主力爆撃機、B29を一発で破壊するための訓練として、模型の背中に帯状の爆雷を乗せたり、爆弾を仕込んだ棒を吸盤で吸着させる技も習得していました。

そんな武器を体中に巻き付け、4人乗りの爆撃機に14人ずつ乗りこみ、夕方6時、沖縄の空に向かいます。人生最後の時間となる、沖縄までの4時間の飛行。

そして夜10時11分、「只今突入」の無線が入ります。しかしほとんどが打ち落とされ、実際に滑走路に胴体着陸したのはたったの1機でした。走り出た11人の隊員は次々に米軍機を襲い、7機が爆発。7万ガロンのガソリンを炎上させました。

 

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これはアメリカ軍が撮影した、翌朝の北飛行場の様子です。およそ30機の飛行機が破壊され、20人のアメリカ兵が死傷。一方、義烈空挺隊員の遺体の数は69体でした。

首里の司令部にいた八原高級参謀は後日こう述べています。「我が空挺隊が敵飛行場に降下し、獅子奮迅の働きをしている様を想像して感動を久しくした。しかし義烈空挺隊は、むしろ小禄飛行場に降下して軍の戦闘に参加してもらったほうが数倍うれしかった」

実は翌日の昼、最後の空挺隊員が残波岬で米軍に射殺されています。あの修羅場を抜け、彼はなぜ、海に向かっていたのか。

 

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その答えは、極秘だった「義烈空挺隊攻撃計画」に書かれています。

「X日Y時を期し主力8機をもって中飛行場に強行着陸し」「爾後、海岸方向に戦果を拡張し揚陸地点付近の物資集積所を攻撃」飛行場を破壊したあと、海岸の物資を攻撃するまでが「第一期攻撃計画」でした。

計画はそれだけではありません。「目的達成せば、一斉に戦場を離脱し北飛行場東方220.3地点に集結第二期攻撃・遊撃戦等を準ビス」

つまり、読谷山岳(ゆんたんざだけ)に再度集結して、ゲリラ戦に移行するのが第二期攻撃だったのです。

 

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隣の山には、すでにゲリラ戦を展開中の第二護郷隊がいました。護郷隊を率いるのは特殊なスパイ教育を受けた陸軍中野学校の人たちそして義烈空挺隊員のうち10人が中野学校の諜報員でした。

名護市史編さん係・川満彰さん「義烈空挺隊の中に陸軍中野学校のひとたちが10人も入っていた理由って言うのは」「第32軍が壊滅したあとも彼らがそこで遊撃隊となって第3遊撃隊第4遊撃隊。その人たちと一緒になって、また32軍が壊滅したあとも遊撃隊となって後方かく乱をしていこうと」

陸軍中野学校沖縄戦の関連を研究している川満さんは、32軍玉砕のあとこそ、彼らの出番だったと指摘します。

川満さん「彼らは生き残る計画だったと思うんですよ。一般の僕たちから見ていたら無謀な計画ではあるんだけれど、とてもじゃないけどそんなことできるんかって言うのがあるんですけれど、彼らは生き残るつもりだった。遊撃戦を展開して、大本営、関東地区の爆撃をどうにかここで少しずつでもいいから食い止めるというそういったことが計画されていたんでしょうね」

出典

1945年5月24日 『義烈空挺隊』 ~ その背後にあった秘密作戦 - Battle of Okinawa (hatenablog.com)