確か
パイロットの名は「富安俊助(とみやす しゅんすけ)」海軍中尉。
大正11年、長崎県に生まれ、間もなく東京都に引っ越します。幼少期は「メバチ」というあだ名で呼ばれ、その後早稲田大学に進学、柔道部に所属していましたが、すべてのスポーツに長けていました。また音楽を愛し、ハーモニカバンドを組んでコンサートもしていたそうです。
昭和17年9月に早稲田大学政治学と経済学の学士号を取得し卒業した後、満州鉄道に就職しました。しかし1年後に学徒出陣を受けて海軍に入隊します。飛行専修予備学生として、筑波海軍航空隊に配属され、短期間でありながら訓練に励みます。
昭和20年4月22日。
富安中尉は出撃のため鹿屋飛行場へ進出。出撃の時を待ちます。
昭和20年5月14日。
富安中尉の所属する「第6筑波隊」は、500キロ爆弾を抱えた零戦15機が鹿屋を飛び立ちました。爆弾のせいで機体が重く、滑走路の端いっぱいに行ってようやく機体が浮いたそうです。
途中1機がエンジンのトラブルで引き返し、14機となりましたが、同じく鹿屋を飛び立った第11建武隊、第8七生隊、第6神剣隊の爆装戦闘機12機と合流し、合計26機となって南のアメリカ空母機動部隊を目指します。
これを察知したアメリカ軍はすぐに迎撃機を発進。特攻機のうち19機が敵戦闘機に撃墜され、6機が対空砲火によって撃墜され、特攻機は富安中尉機のみとなってしまいます。
午前6時56分。
富安中尉は対空砲火を避けるため、いったん雲に身を隠します。そして時折雲間から顔を出しては「エンタープライズ」の位置を確認していました。
一方の「エンタープライズ」は20分前からレーダーで富安中尉機をとらえていましたが、雲に隠れていたために、なかなか効果的な攻撃ができないでいたのでした。
「エンタープライズ」が回頭。艦尾を向けた瞬間。
富安機は急降下。
「エンタープライズ」は集中砲火を浴びせますが、横滑りを駆使する富安機になかなか致命傷を与えられず、懐へ進入を許してしまいます。そのまま「エンタープライズ」の横腹へ突っ込むかと思いきや、
富安機は上昇し、艦の真上へ。そして180度左旋回すると、
引用元:http://soranokakera.lekumo.biz/tesr/2014/12/post-2c26.html
午前6時57分。背面飛行のまま、「エンタープライズ」の前部エレベーターに突入。
引用元:http://soranokakera.lekumo.biz/tesr/2014/12/post-2c26.html
「エンタープライズ」の前部エレベーターは突入時の衝撃で、上空約120mの高さまで吹き飛びました。「エンタープライズ」は大破し、航空機の運用ができなくなり、戦線離脱。二度と戦場に戻ることはありませんでした。
富安機の突入により、「エンタープライズ」のクルー、175人の死傷者を出しました。突入した富安中尉も22歳という若さで命を落としました。
クルーたちは亡くなった水兵たちを水葬した後、富安中尉をたたえる名誉式典を行い、空母クルーたちと同じように手厚く水葬に付しました。
「エンタープライズ」は終戦まで入渠修理を強いられ、戦後は兵員引き上げ船として使われたあと、そのまま除籍となりました。
富安機の零戦の機体の一部が戦後返還され、現在は海上自衛隊鹿屋基地にて展示されています。
また富安中尉の衣服に入っていた50銭札が戦後アメリカの研究家により、遺族に返還されました。出典
https://note.com/ramunebin_soda/n/nbb896b9b60bd
学徒出陣を受けて海軍に入隊します。飛行専修予備学生として、筑波海軍航空隊に配属され、短期間でありながら訓練に励みます。
1,2年の訓練で技術を習得か
根っからの職業軍人ではない。
スポーツ万能。
雲に隠れてエンタープライスを監視して
一気に低空で横滑りで被弾を回避
敵前で急上昇、上空から甲板めがけ突入。
ほぼ自分が生まれる9年前の4月戦死。