自分も昔から聞いていた話であったが
命からがら城に逃げ帰った後の措置。
門を閉めて籠城すればかなりの時間持ちこたえる兵力はあったという。
しかしながら、門を開け放ち、門前に灯をつける。空城の計にした。
空城の計とは、敵に対して自分の陣地が手薄であることを見せかけて、敵の心理を狂わせる戦術の一つです。
この戦術は、中国の三国時代に蜀の諸葛亮が魏の司馬懿に対して使ったという逸話に由来します。
諸葛亮は、魏の大軍に包囲された城を守るために、城門を開けて市場を開き、自分は楽器を弾きながら城壁に登りました。
司馬懿は、これを見て諸葛亮が何か罠を仕掛けていると疑い、攻撃を控えました。
結果的に、諸葛亮は援軍が到着するまで城を守ることができました。
空城の計は、敵の期待と反する行動で敵の不安や恐怖を煽ることで、敵の判断力や行動力を奪う効果があります。
しかし、この戦術は非常に危険であり、敵が本当に攻撃しないという確信がなければ使えません。
また、敵に自分の弱点や意図を見破られる可能性もあります。
したがって、空城の計は、自分の状況や敵の性格をよく把握し、タイミングや演出に気を付けなければなりません。
空城の計は、古典的な戦術ですが、現代でもビジネスや交渉などで応用できる場面があります。
例えば、競合他社に対して自社の製品やサービスが優れていることをアピールする場合、あえて自信満々に振る舞うことで、相手に自社に隙がないと思わせることができます。
また、相手から要求された条件に対してすぐに応じることで、相手に自分が何か裏を持っていると思わせることもできます。
このように、空城の計は、相手の心理を読み取り、自分の利益につなげるための有効な手段です。
自分も疑問に思ったことだが、本当に攻められたら徳川家康の命もなかったと思うが、本当だったのだろうか?
徳川家康の空城の計は史実か
三方ヶ原の戦いで武田信玄に大敗した徳川家康は、浜松城に逃げ込んだ。しかし、武田軍は追撃してきそうになかった。
その理由として、家康が空城の計を仕掛けたという話が伝わっている。
空城の計とは、兵法三十六計の第三十二計で、自分の陣地を無防備に見せることで敵の警戒心を煽る作戦である。
家康は城に松明を焚かせ、門を開け放ち、城内を静かにさせたという。
これを見た武田軍は罠があると思って攻め込まなかったとされる。
しかし、この話は本当なのだろうか。
史料によっては、家康が空城の計を仕掛けたという記述は見られない。
むしろ、家康は鉄砲を撃たせて敵を威嚇したり、信玄の偽首を作って自慢したりしたという話がある。
また、武田軍も空城の計を見破っていたが、攻め込むべきか悩んだ末に時間切れになったという説もある。
つまり、空城の計は後世の創作であり、史実ではない可能性が高いと言えるだろう。
このブログでは、徳川家康の空城の計について検証してみた。
歴史には真実だけではなく、伝説や創作も含まれていることを知ることが大切である。
家康の知略や運命を考える上でも、空城の計は興味深い話題である。
自分は空城の計はなかったと思う。
初めてこの話を知ったときから、人間だったら絶対にやらんと
思っていたが、やらんだろうと信じた。