日本人が神仏を拝む理由とは?【2つの考え方】

神仏をなぜ拝むのかについて

 

神仏をなぜ拝むのか

神仏を拝む理由

日本人にとって、神社や仏閣は身近な存在です。日常生活の中で、神社や仏閣を参拝したり、神仏に祈ったりすることが、ごく当たり前のこととして行われてきました。

では、なぜ日本人は神仏を拝むのでしょうか。その理由は、大きく分けて2つあります。

1つは、神仏の力やご利益を授かりたいという理由です。神仏は、自然や宇宙の秩序を司り、私たち人間の生活を守ってくれる存在であると考えられてきました。そのため、神仏に拝礼することで、その力やご利益を授かり、幸せや幸福を願うのです。

例えば、健康や長寿を授かりたいという願い、仕事や学業で成功したいという願い、恋愛や結婚がうまくいきたいという願い、災難や事故から守られたいという願いなどが挙げられます。

 

A side view of a young Japanese man standing at a

もう1つは、神仏の存在を敬い、感謝の気持ちを表すという理由です。神仏は、私たち人間の祖先や、自然の恵み、また私たちの心の中に宿る崇高な存在であると考えられてきました。そのため、神仏に拝礼することで、その存在を敬い、感謝の気持ちを表すのです。

例えば、自然の恵みに感謝したいという願い、先祖の霊を供養したいという願い、心の安らぎを得たいという願いなどが挙げられます。

神仏信仰は、古代から脈々と受け継がれてきたものです。神仏を拝むことは、日本人の精神的な支えであり、生きる上での指針となっています。

もくじ

1. 神仏の力やご利益を授かりたいという理由

 1-1 健康や長寿を授かりたい

 1-2 仕事や学業で成功したい

 1-3 恋愛や結婚がうまくいきたい

 1-4 災難や事故から守られたい

2. 神仏の存在を敬い、感謝の気持ちを表すという理由

 2-1 自然の恵みに感謝したい

 2-2 先祖の霊を供養したい

 2-3 心の安らぎを得たい

3. まとめ

4. 補足

 

1. 神仏の力やご利益を授かりたいという理由

 1-1 健康や長寿を授かりたい

健康や長寿は、人間にとって最も大切な願いのひとつです。病気やけがに苦しむことなく、いつまでも元気で過ごしたいという願いは、誰もが抱くものです。

そのため、神仏に健康や長寿を祈願する人は少なくありません。神仏は、自然や宇宙の秩序を司り、私たち人間の生活を守ってくれる存在であると考えられてきました。そのため、神仏に拝礼することで、その力やご利益を授かり、健康や長寿を願うのです。

健康や長寿を祈願する際には、以下のようなものが挙げられます。

  • 病気やけがから守ってもらいたい

  • 健康で元気に過ごしたい

  • 老化を遅らせたい

  • 長生きしたい

神社や仏閣には、健康や長寿を祈願するための特別な祭事や祈祷が行われているところもあります。また、神仏にちなんだ縁起物やお守りなども、健康や長寿を祈願する際に用いられます。

健康や長寿を祈願することは、単に病気やけがから身を守ることだけではありません。日々の生活の中で、心身ともに健康で過ごせるように、神仏の力を借りて願うという意味合いもあります。

 1-2 仕事や学業で成功したい

仕事や学業で成功するためには、努力や才能も必要ですが、それ以上に大切なのは、前向きな気持ちと強い意志です。

神仏を拝むことで、これらの気持ちを高め、成功への道を切り開くことができると考えられています。

例えば、仕事や学業で困難に直面したときには、神仏に祈ることで、困難を乗り越える勇気諦めない強い意志を授かることがあります。

また、神仏に自分の目標を誓うことで、目標達成へのモチベーションを高めることができます。

具体的には、以下のようなものが挙げられます。

  • 神仏の力を借りて、困難を乗り越える

  • 神仏に自分の目標を誓い、モチベーションを高める

  • 神仏の存在を信じることで、前向きな気持ちになる

もちろん、神仏を拝んだからといって、必ず成功するわけではありません。しかし、神仏を信じ、前向きに努力することで、成功の可能性を高めることができるのです。

 1-3 恋愛や結婚がうまくいきたい

恋愛や結婚がうまくいきたいと思う人は、誰しもが抱く願いです。神仏に恋愛や結婚の成就を祈る際には、どのようなことに気をつければよいのでしょうか。

まず、大切なことは、自分の幸せを願うことです。恋愛や結婚がうまくいくためには、自分自身が幸せであることが第一です。そのため、自分の価値観や理想をしっかりと理解し、自分にとって本当に大切なことは何かを見つめ直しましょう。

また、相手を思いやることも大切です。恋愛や結婚は、自分と相手の両方が幸せになるためにするものであることを忘れないでください。相手の気持ちや考えを尊重し、相手の幸せのためにも努力しましょう。

さらに、神仏の存在を信じることも大切です。神仏の力やご利益を信じて、心を込めて祈ることで、よりよい結果が得られる可能性が高まります。

恋愛や結婚がうまくいくために、具体的にはどのようなことを祈ればよいのでしょうか。

  • お互いの愛情を深めてほしい

  • お互いを尊重し合える関係を築いてほしい

  • お互いの価値観を理解し合える関係を築いてほしい

  • お互いの夢や目標を応援し合える関係を築いてほしい

  • お互いに幸せになれる家庭を築いてほしい

このようなことを祈ることで、お互いの愛情を深め、幸せな結婚生活を送ることができるでしょう。

恋愛や結婚がうまくいくためには、自分自身や相手をよく知り、神仏の力やご利益を信じて、心を込めて祈ることが大切です。

 1-4 災難や事故から守られたい

自然災害や事故は、いつどこで起こるかわかりません。そのため、私たちは日頃から、災難や事故から身を守るためにさまざまな努力をしています。しかし、それでも、災難や事故に巻き込まれてしまう可能性はゼロではありません。

そのようなとき、神仏に祈ることで、災難や事故から守られたいと願うのです。神仏は、自然や宇宙の秩序を司る存在であると考えられてきました。そのため、神仏に祈ることで、自然災害や事故を未然に防いでくれたり、もし災難や事故に巻き込まれても、無事に助けてくれたりするのではないかと考えられています。

具体的には、以下のような祈りがあげられます。

  • 地震や台風などの自然災害から守ってほしい

  • 交通事故や火災などの事故から守ってほしい

  • 病気やケガから守ってほしい

神仏に祈ることは、災難や事故から身を守るための一つの方法です。しかし、それだけでは不十分です。日頃から、安全に配慮した行動を心がけることも大切です。

2. 神仏の存在を敬い、感謝の気持ちを表すという理由

 2-1 自然の恵みに感謝したい

日本人は、古くから自然と共存する生活をしてきました。そのため、自然の恵みに感謝し、それを守っていくことが大切であると考えられてきました。

神仏は、自然の恵みそのものであるとともに、自然を司る存在としても考えられてきました。そのため、神仏を拝むことは、自然の恵みに感謝し、その恵みを継続的に受けることができるように願う行為でもあるのです。

具体的には、以下のようなものが挙げられます。

  • 豊かな食料に感謝する

日本人は、米や野菜、魚介類など、豊かな食料に恵まれています。神仏に拝礼することで、その食料に感謝し、これからも豊かな食料を供給してもらいたいと願うのです。

  • 美しい自然に感謝する

日本には、四季折々の美しい自然が存在します。神仏に拝礼することで、その自然に感謝し、これからも美しい自然を守ってもらいたいと願うのです。

  • 豊かな水資源に感謝する

日本は、豊かな水資源に恵まれています。神仏に拝礼することで、その水資源に感謝し、これからも豊かな水資源を供給してもらいたいと願うのです。

このように、自然の恵みに感謝することは、日本人の精神的な支えであり、生きる上での指針となっています。

 2-2 先祖の霊を供養したい

神仏を拝む理由のひとつに、先祖の霊を供養したいという理由があります。

日本人は、祖先を大切にする文化を持っています。先祖は、私たちの存在の基盤であり、私たちの幸せを願って見守ってくれている存在であると考えられてきました。そのため、先祖の霊を供養することは、私たちの幸せや繁栄を願う、大切な行為であると考えられているのです。

先祖の霊を供養する方法は、地域や宗派によってさまざまです。一般的には、お墓参りやお仏壇へのお供え、法要や法事などの儀式が行われます。また、先祖の功績を讃えるため、神社や仏閣に奉納することもあります。

先祖の霊を供養することは、単に宗教的な行為だけでなく、私たちの心の安らぎを得るためにも重要な役割を果たしています。先祖の霊に感謝の気持ちを伝えることで、自分たちの生きる意味や価値を再確認することができ、人生をより豊かに生きることができるのです。

具体的には、以下のような効果が期待できます。

  • 心の安らぎを得る

  • 家族や親族の絆を深める

  • 地域のコミュニティに貢献する

  • 人生の指針を得る

先祖の霊を供養することは、私たちの精神的な支えであり、生きる上での指針となる大切な行為です。

 2-3 心の安らぎを得たい

現代社会において、私たちはさまざまなストレスにさらされています。仕事や学業、人間関係、経済状況など、さまざまな要因によって、心が疲れ果ててしまうことがあります。

そんなとき、神仏を拝むことで、心の安らぎを得ることができるのです。神仏の存在を敬い、感謝の気持ちを表すことで、心が穏やかになり、平静を取り戻すことができます。

また、神社や仏閣は、静かで落ち着いた空間であることも、心の安らぎにつながります。自然豊かな場所にある神社や仏閣では、四季折々の自然の美しさを眺めながら、心を癒すことができます。

神仏を拝むことは、単なる宗教的な行為ではなく、私たちの心の健康を保つための手段でもあるのです。

具体的には、以下のような効果が期待できます。

  • ストレスや不安を軽減する

  • 心を落ち着かせ、リラックスする

  • 前向きな気持ちになる

  • 生きる意味や目的を見出す

神仏を拝むことは、私たちの心を癒し、生きる力をくれるのです。

3. まとめ

神仏を拝む理由は、大きく分けて2つある。

1つは、神仏の力やご利益を授かりたいという理由である。神仏は、自然や宇宙の秩序を司り、私たち人間の生活を守ってくれる存在であると考えられてきた。そのため、神仏に拝礼することで、その力やご利益を授かり、幸せや幸福を願うのである。

具体的には、以下のようなものが挙げられる。

  • 健康や長寿を授かりたい

  • 仕事や学業で成功したい

  • 恋愛や結婚がうまくいきたい

  • 災難や事故から守られたい

もう1つは、神仏の存在を敬い、感謝の気持ちを表すという理由である。神仏は、私たち人間の祖先や、自然の恵み、また私たちの心の中に宿る崇高な存在であると考えられてきた。そのため、神仏に拝礼することで、その存在を敬い、感謝の気持ちを表すのである。

具体的には、以下のようなものが挙げられる。

  • 自然の恵みに感謝したい

  • 先祖の霊を供養したい

  • 心の安らぎを得たい

神仏信仰は、古代から脈々と受け継がれてきたものであり、日本人の精神的な支えであり、生きる上での指針となっている。また、神仏を拝むことは、単に宗教的な行為だけでなく、社会的な規範としても機能してきた。神社や仏閣は、地域のコミュニティの中心となり、人々が集う場所として、また、地域の平和や繁栄を願う場所として、重要な役割を果たしてきた。

現代社会においても、神仏信仰は、日本人の心の拠り所として、重要な意味を持っている。

4.補足

 

親鸞は先祖を拝む必要はないといと解いていますがどのような理由ですか?

 

親鸞は、先祖を拝む必要はないと考えていました。その理由は、以下の2つが挙げられます。

1つ目の理由は、先祖も浄土に往生できるという考え方です。親鸞は、阿弥陀如来の本願によって、どんな罪人も極楽浄土に往生できると説きました。そのため、先祖がどんな罪人であったとしても、阿弥陀如来の力によって救われると考えられているのです。

2つ目の理由は、先祖の供養は、子孫の信心によって成り立つという考え方です。親鸞は、先祖の供養は、子孫が阿弥陀如来の本願を信じ、念仏を称えることによって成り立つと説きました。そのため、先祖を供養するために、先祖の霊を祀ったり、お墓参りをしたりする必要はないと考えられているのです。

親鸞は、これらの考え方をもとに、先祖を拝む代わりに、阿弥陀如来の本願を信じ、念仏を称えることこそが、真の先祖供養であると説きました。

具体的には、親鸞は、以下の言葉を残しています。

親鸞は、父母の孝養のためとて、一返にても念仏もうしたること、いまだそうらわず。そのゆえは、一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり。

(『歎異抄』第5章)

この言葉は、親鸞が、先祖の供養のために念仏を称えたことは一度もないと述べたものです。親鸞は、先祖も自分も、阿弥陀如来の慈悲によって救われる存在であり、そのためには、阿弥陀如来の本願を信じ、念仏を称えることが重要であると説いたのです。

また、親鸞は、以下の言葉も残しています。

先祖の霊は、我らの信心によって、浄土に往生するなり。

(『教行信証』雑行相承章)

この言葉は、先祖の霊は、子孫の信心によって、浄土に往生できると述べたものです。親鸞は、先祖の供養は、子孫が阿弥陀如来の本願を信じ、念仏を称えることによって成り立つと説いたのです。

このように、親鸞は、先祖を拝む必要はないと考えていました。それは、先祖も浄土に往生できるという考え方と、先祖の供養は、子孫の信心によって成り立つという考え方に基づくものでした。

自分は仏教では現状葬式仏教が本当の意味の仏教に変わる分岐点の時期に来ているのではないかと考えられる。

先祖のために拝まない仏教、拝まないというより少子高齢化でお墓じまいとか子供のいない家族とか

必然的に拝むことができなくなっている。

日本では霊力を持った教祖に羊のようなおとなしい信者が群がる。

その信心はものすごいものがある。

信心は仏教は如来から教えをいただく、カリスマ、教祖様から頂くものではない。

如来から頂くもの、カリスマ、教祖様に弟子いないはず。

なぜ、信徒はひとりひとり如来から教えをいただいているから。

教祖様をあがめる信仰は将来的になくなっていくだろう。

そんな考えもでてくるでしょう。