庭の今、花の咲いてない植物
オタフクナンテン
小さかったが
ここまで大きくなってきた。
これって紫の花咲くんです。
今は咲いてない
これも少量頂き物「アイビー」
だった
増えることふえること
多肉植物としか分からない
いつもこの時期になると
芝に庭に発生する
謎の穴
蟻塚?
よくわからないんです。
本日は水戸に高速で行った。
水戸から帰りは空いていた。
本日の筑波山は
畑で農家の人が大好きな
「火もし」・・・・・・火燃し
筑波山に煙がかかってしまっていた。
山頂のう上にも雲が浮いてる。
これは、飼料米を作って丸めたものだ。
補助金が出るんだと
赤バラだっぺ
咲いていた。
常総市を走行中
この標識を見る
長塚節の生家だ。
農民文学の偉大な茨城の偉人
「長塚節」
農民文学不朽の名作となった「土」の作者・長塚節 国生に残る生家
農民文学不朽の名作となった「土」の作者・長塚節 国生に残る生家
明治43年(1910)に朝日新聞に連載された小説「土」は、文豪・夏目漱石が絶賛し、後には「農民文学不朽の名作」と評価されています。作者の長塚節(ながつか たかし)は、明治12年(1879)、岡田郡国生村(旧石下町、現在の常総市国生)の豪農の長男として生まれています。
節は、3歳のころに小倉百人一首をそらんじ、神童といわれ、早くからその才能を発揮していました。また、父は県会議員を務めたほどの名士で家庭環境は恵まれていましたが、病弱であったため水戸中学(現在の水戸一高)に進学するも中退を余儀なくされました。病を癒すかたわら、そのすぐれた感受性から短歌に目覚め、正岡子規の門をたたきました。
子規のところでは、「馬酔木(あしび)」の編集同人として活躍する一方、伊藤左千夫とともに「アララギ」を創刊し、頭角をあらわしてきました。一方で、病気療養を兼ね、菅笠、草鞋という軽装で諸国を旅し、旧所、名跡を訪ねて歌を詠みました。万葉集の歌風を取り入れた節の歌は、自然を限りなく深い眼差しでとらえています。http://www.city.joso.lg.jp/jumin/kosodate_kyoiku_sports/gakushu/nagatsuka/1420438304985.html引用
このように茨城には名所が多いんです。
魅力ある茨城県です。
やがて暗い闇がやってくるんだ。
本日の筑波山は
朝午前10時です。
「ボー」と筑波山が現れてますね。
これは日光連山
行方不明のフランス人旅行者がいるかもしれないエリアかな。
14時ごろの筑波山
くっきりスマート
そして夕暮れのピンクの闇
一日も終わりです。
茨城県の古河の北方にある
のぎ水辺の学校
夏蛍が見れるという
http://blog.livedoor.jp/dada_2/tag/のぎ水辺の楽校引用
本日は石毛に行く
魅力がある茨城発見のために
豊田城(市民交流センター)
歴史上の豊田城は水の中になる。
「豊田城」というと、豊田地区に聳え立つ、異常なほどの大きさの模擬天守がすぐに浮かぶ人も多いでしょう。関東有数の怪しいお城じゃないかと思いますが、かくいうソレガシもはじめてこの附近に来たとき、遠方に巨大な天守が聳えているのを見て「なんじゃこりゃあ!?」と思ったひとりです。この現代の「豊田城」は正確にはお城と全く関係ない場所に建てられた「石下町地域交流センター」であって、中は郷土の作家、長塚節関連の資料や郷土史資料などが展示されています。まあ遺構の破壊とかは無いわけだし、「模擬天守!」って目くじら立てるようなモノでもないでしょう。ただただその巨大さに唖然と見上げればいいのですから。ちなみにこの「豊田城」、町のあちこちに出城(?)があって、ある種のシンボルになっていることが感じられます。展示内容は結構充実していますが、入館料400円はちとベラボーな気はします。
しかしこの「豊田城模擬天守」とは別に、ホンモノの豊田城もありました。かつては。このホンモノ豊田城は小貝川に架かる「長峰橋」の下流1kmほどの堤防上とその下の二箇所、ぽつんと城址碑が建っています。これで分かるとおり、豊田城は小貝川の河川改修と耕地整理によってすっかり消滅してしまったのです。
http://www.umoretakojo.jp/Shiro/Kantou/Ibaraki/Toyoda/index.htm引用
今は新豊田城で城を見るべき
本日の筑波山は
結構見えた
赤バラも
これは違う
すみません
写っていませんでした。上のほうにいるんだが
そのうち暗くなって
夕暮れが忍び寄る